議論が必要です

 数年前の憲法記念日のテレビ番組。NHKではプライムタイムに1時間の特集番組の後に90分の各党の国会議員を招いての討論番組(野党が憲法改正とは関係のない問題で与党を糾弾することに時間が割かれたが)が組まれた。民法地上波では各局概ね通常の番組編成で、報道番組内で10分程度の特集の後にキャスターが「議論が必要です。」と締めくくった。オピニオン誌を読む人は少ない。民放テレビで議論しないでどこで議論するというのか。「議論が必要です。」が、「行けたら行く。」レベルの定型文に成り下がっている。

 日曜日には討論番組が放送されているが、司会者が積極的に進行に関与しないので主張の羅列になっている感がある。深夜の月イチの討論番組を以前は視聴していたが、今は司会者が不快で視ていない(司会者が悪いのではなく、引導を渡せない製作者が悪い)。

 「地球最後の日に何を食べるか?」という問いがあるが、「自分はカレー。」「私はお茶漬け。」などと単純なものではない。カレーやラーメンなどの料理の種類なのか、キッチン南海のカツカレーや中華そばまるきのまるきそばなどの特定の商品なのか。突然に最期が宣告された後の一食なのか、最後までの期間があり色々食べ尽くした上での最後の一食なのか。討論の進行役は、条件を整理して出演者が同じステージで議論を積み上げる様に務めなければならない。時に非論理的な発言を制する勇気も必要である。そのような討論番組はないものか。

人間はスマホの道具?

 若者は写真を撮りまくる。まるで自分の存在を確かめるかのように。薄れゆく自分の輪郭を取り戻すかのように。ただの自己満足だという人もいる。承認欲求の現れだという人もいる。ちょっと変わった見方だが、もし意識を持ったエネルギー生命体がニュートラルに人間の若者を観察したら、スマホが本体で人間が道具と見るかもしれない。美味しそうな食べ物を前に写真を撮りまくるのは、まずはスマホが堪能し、人間がお預けを食らっている状態である。リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子に通じる考えである。もしくは、スマホが本体ではなくて、クラウドが本体とも言える。クラウドの命令によりスマホが実行部隊となり人間という道具を使って情報を集めている。ちょっと前まで人間はネットワークに繋がりそれに依存するにつれ自分一人で考え決定する能力を失い単細胞生物から多細胞生物の中のイチ細胞に成り下がったと感じていたが、ネットワークのイチ細胞であるスマホの道具まで成り下がっているのかもしれない。マトリックスっぽい。